2011年5月22日日曜日

トロッタ13通信(37/5月22日分)

(其の六十五)
 朝は高円寺にて、清道洋一と『ヒトの謝肉祭』の打ち合わせ。この曲が何を表わそうとしているのか、理解したい。話をしているうちに、だんだん、この曲を演奏している光景が見えてきた。別れた後、古本屋に行き、小道具として演奏中に持つ、譜面と詩を貼り付けた本を探す。曲のための、大切な準備である。昼間はロルカの楽譜を整理した。これも、演奏に使うためのもの。覚えているとはいうものの、詩を書きつけて、万が一に備える。しかし、私による日本語訳がまだできないのが気がかり。時間がない。
 夜は秋葉原にて、上野雄次と『都市の肖像』第四番の打ち合わせ。照明の使い方などを相談する。この曲も、見えて来なければならない。私の考え。先に曲があり、後で詩ができた。創作の順序はいつもと逆だが、私の態度は、橘川との共同作業で、何の変わりもない。いつもと同じで変化なし、ということではなく、お客様の前に出すまでは共同作業だと思っている。
『謝肉祭』にせよ『都市の肖像』にせよ、どちらの曲についても、体で納得できなければできない。昨年、橘川の個展で初演された『夏の國』は、練習時は声が満足に出なかったが、すべて納得した本番時には、文字通り腹の底から声が出た。納得しなければ、声は出ない。納得しないで出す声は、嘘である。技術でしかない。生の声を出すのだから、技術ではない声を聴いてほしい。技術なら、マイクを通せばいい。それは私の流儀ではない。

(其の六十六)
■ 田中隆司
 田中隆司『捨てたうた』の」譜面を、久しぶりに開く。昨年四月三十日の第十回以来だから、一年以上、手にしていなかった。
 田中隆司の曲を、戸塚ふみ代が名古屋で偶然に聴いたこと。これがきっかけで、田中のトロッタ参加が決まった。
 田中隆司が書いた芝居を、中野の光座で観たこと。久しぶりにアンダーグラウンドな芝居を観た。洗練よりも大事なものがあると、彼は思っているかもしれない。
 田中隆司が、谷中ボッサの「声と音の会」に来てくれたこと。会場ごとの使い方を考えた方がよいという意見。
 田中隆司の曲を、上野の旧奏楽堂で初めて聴いたこと。私は清道洋一の『風乙女』に出演したが、それに対する意見を、客席で彼に求めた。
 阿佐ヶ谷の喫茶店で打ち合わせを重ねたこと。彼が持つ人生のスタイルに、私の心は必ずしも馴染まない。しかし、それは全員に対してそうだろう。違えば違うほどよいという信念を、どう生かすか、生きるか。自分に問う。田中隆司に向き合うことは、自分に向き合うこと。これも、全員に対して同じことがいえる。
 荻窪のヤマハ音楽教室で、初めて合わせをしたこと。雨が降っていた。私は久しぶりに洋服を着て他人の前に立った。洋服を着ることから、私の『捨てたうた』は始まっている。いや、洋服を探し始めた時から始まっている。
 本番会場での意見の齟齬。これには私にも言い分があるが、彼にも言い分があるだろう。言い分と言い分の衝突。音楽も演劇も、同じだ。しかし、本番当日の舞台上でぶつかり合いたくないというのは正直な思い。最後までぶつからせる、という考え方もあるだろう。
 齟齬は齟齬として、翌日には舞台成果について話ができたこと。アンサンブルではなく、ヴァイオリンとピアノとだけでも演奏できるよう考えてもよいと、彼はいった。どこでもできるようにする、ということ。私の反省点。共演した役者たちと、その後の連絡が取れていない。私の作品(でもある)の駒として彼らを使い、後は知らん顔という形になっている。非常によくない。私のひとつの態度として、その後の緊密な関係作りはできなくても、トロッタを一緒に開催していくことで、関係を保ち続けるというものがある。しかし役者たちは、『捨てたうた』に出たきり。私は人を自分の思い通りに動かしたくない。
 田中隆司の戯曲集に、人生のさまざまが書かれていたこと。彼の中に、制御できない自分があるのだろう。それを背負って生きているのだろう。そんな自分を、他人にどう向き合わせるのかを考えているのだろう。
 田中隆司が指導する声楽リサイタルのチラシを三度まで作ったこと。たった今も作っている。そのチラシ作りを通じて、彼に対していろいろと考えている私がいる。芝居も観ている。電話もかかってきた。『捨てたうた』は終わり、再演の機会を得ないままだが、関係は続いている。浅からぬ関係に思いをはせている。
 彼が、『捨てたうた』のために、私の三篇の詩を、断って構成したこと。三篇の選び方、断ち切り方。そうしたことについて考えてみたいと思う。

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