2011年5月9日月曜日

トロッタ13通信(24/5月9日分)

(其の三十七)
■ 田中修一
 トロッタで演奏された田中修一の曲が、PITINAのサイトwww.piano.or.jp/で4曲、視聴できる(「田中修一」を検索すればよい)。第二回で演奏された『ヴァイオリンとピアノのためのエグログ』、第三回で初演され編成を変えて第九回で演奏された、ソプラノと二台ピアノのための『ムーヴメント〜木部与巴仁「亂譜」に依る』(第九回ではソプラノと打楽器、ピアノ、電子オルガン)、第四回で演奏されたヴァイオリン、チェロ、ピアノのための『TRIO BREVE“牧嘯歌”』、第十一回で演奏されたソプラノ、詩唱、マリンバ、ピアノのための『ムーヴメントNo.2から木部与巴仁「瓦礫の王」に依る』である。そのうち、『エグログ』についてここ数日、思っていた。
『エグログ』を田中が作曲したのは、1991年。ヴァイオリンとピアノの対話を意識した曲で、Eglogueという言葉自体、対話体の田園詩という意味を持つ。16世紀のスペインで流行した、羊飼いが登場し、歌と音楽を伴う牧人劇の意味合いもあった。作曲された1991年に初演、1994年に改訂初演、1997年にはさらに改訂を施している。中間部に短いカデンツァ風の部分と、ジプシーヴァイオリンに近い様式のAllegroを加えたという。トロッタでの演奏が、97年版の初演となった。演奏は、ヴァイオリンが戸塚ふみ代、ピアノが今泉藍子である。
 Eglogueという言葉は、伊福部昭の『二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ』で親しい。伊福部は、野坂恵子による二十絃箏と、オーケストラとの対話を意図した。田中はヴァイオリンとピアノである。以下に書くことは私の解釈で、田中の意図とは別にしていただきたい。『ヴァイオリンとピアノのためのエグログ』は、田中修一が提出した、“詩と音楽”である。
 対話といえば、言葉を思い浮かべる。牧人劇として使われた言葉だから、言葉を伴ったのである。つまり意味がある。エグログやオペラは音楽といえようが、言葉があり意味のある表現だ。しかし、田中修一や伊福部昭のエグログは、言葉に依らない音楽表現であり、意味はない。それをあえて対話という。
 戸塚ふみ代と今泉藍子のエグログを、改めて聴く(個人的には、その演奏と今の間に、十回のトロッタがあったのかという感慨を、当然抱く)。田中の意図したとおり、ヴァイオリンとピアノの対話が聴こえてくる。言葉に頼り、意味を伴うものだけが詩ではないのかもしれない。鳥の言葉は、人に意味をもたらさない。鳥同士には意味があるだろう。しかし人に意味は聴こえず、音楽として聴こえる。あるいは−−、詩として聴こえる?

(其の三十八)
 詩は、意味を持たないものだろうか。
 確かに、私も詩を書く時、意味を伝えることを第一の目的にしていない。
 意味を伝えるには、詩はあまりにも言葉足らずだ。
 言葉足らずがいいと思い、詩を選ぶ。意味を伝えるなら散文で、評論を書く。
 詩は、まず絵画に近い。
 目の前にある風景、人の心の風景を詠む。
 そして音楽にも近い。
 朗読なり詩唱される、その声を聴いてほしい。
 黙読される場合も、言葉の連なりが生むメロディやリズムを、頭に浮かべる。意味の助けを受けながら(“空”と詠めば、“海”ではなく“空”を思ってほしい)、その瞬間にとどまらず、次の言葉に展開し、その意味を待ち、そうして連続する言葉の広がりが、ひとつの世界を描き出す。
 田中修一の『エグログ』は、音楽による詩、といえるだろう。それならば、“詩と音楽”の会であるトロッタにふさわしい。実は当時、そんなことは思わなかった。たった今、『エグログ』について考えながら思った。第一回に出品した歌曲『鳥ならで』に続くものとして、彼なりに考えて、出品したのではなかったか(後からわかってくることがある。トロッタで演奏されたすべての曲についても同じことがいえよう。トロッタが、意味を求めて行なわれているのではないから)。
『エグログ』の中間部に、彼はジプシーヴァイオリンに近い様式を加えたという。洗練されていない、力強く、土の味わいがする音楽。
 ジプシーと来れば、楽器はギターを想像し、彼らは長い流浪を繰り返しており、その途次にさまざまな芸能を吸収し、踊りを伴い、当然だが歌も生まれる。田中はそういうものに心を寄せるのだなと想う。それだけで、すでにじゅうぶん、詩的である。田中の心のうちが想像できるし、ヴァイオリンとピアノの対話といいながら、田中修一から聴く者に働きかけるエグログ、対話ではないのか。『エグログ』の戸塚ふみ代は、第十三回で、伊福部昭の『協奏風狂詩曲』を弾く。彼女を生かした田中修一のヴァイオリンを、トロッタの舞台で、いつの日か、久しぶりに聴きたいと思っている。
(この文章を書いている時、『協奏風狂詩曲』について、田中と戸塚の間に電子メールのやりとりがあったと聞いた。だからふたりについて書いたわけではない。偶然の重なりである)


(其の三十九)
 酒井健吉から電子メールが届き、第十四回の出品曲ついて、彼なりの考えを伝えてきた。新曲を書く時間が取れそうにないので旧作でと、何曲か候補をあげてくれた。そして、作曲の時間がないと思うのは、東日本大震災で被害を受けた人々を支援するため、東北のある地方の民謡を使った吹奏楽を作曲するからだという。自治体から依頼されたのである(今はまだ具体的には書かずにおく)。私は、旧作でも何らさしつかえがない。旧作の中には、トロッタで演奏されたことのない、興味深い曲があった。酒井が社会的と思う仕事をし、現実を生きる中で、トロッタに出品してくれればうれしい。



 先の田中修一の曲から始めた話を、もう少し、掘り下げておこう。
 音楽に意味はない(当然だが、価値がないということではない)。音楽は頭で聴くものではなく、耳で聴くものである。耳で聴いて心に響かせる。聴く側にとって、音楽の想像力というと、私には連想と受け止められる。そのような類のものもあっていい。映像と一緒に味わう音楽がそうだし、いかにも朝日が昇る、あるいは海原が広がる、嵐に襲われている、そのような音楽はあるのだから。
 しかしEglogueといいながら、田中修一の曲を聴いて、例えば田園詩(“田園”に意味があるだろう)とか、牧人劇(“牧人”に意味がある)といった、言葉本来の意味は連想しない。もっと直接的な、ヴァイオリンとピアノによる、その場の対話を聴く。対“話”というから、言葉を連想するのかもしれない。掛け合いとでもいった方が、誤解がなくていい。やはりPITINAのサイトで視聴できる、『TRIO BREVE“牧嘯歌”』も同じだ。ヴァイオリン、チェロ、ピアノの対話である。田中によれば、三つの楽章ごとの主題は、牧童の嘯歌になぞらえているという。民俗音楽が下敷きにある。プリミティブな様式を求めているというから、ここでも洗練は第一の目的になっていない。
 牧人、牧童というから、私などは洒落たニュアンスで受け取ってしまうのだが、要するに羊飼いであり、牛や馬を追う者であろう。そして演奏に洗練は求めない、ジプシー奏法、プリミティブな様式といいながらも、一定のレベルは求められるし、アンサンブルの場合は他の楽器との協調性が必要だ。粗野で得手勝手は許されない。一定レベルの演奏で、原始的に聴こえるようにしたい。つまり、演技に通じる演奏がほしいということ。
 プリミティブな演奏を、というのは意味である。しかし実際の音になった場合、それは意味を超越して心に届く。届かざるを得ない。意味がないのだから、下手でも心に届いてしまう(その場合、奏者は何を表したいのかと、聴き手は意味を求めるだろうか。上手は聴き手が意味を求める隙を与えない。詩も、同様であろうか)。

(其の四十)
『立つ鳥は』の詩は短かった。わずか六行である。

立つ鳥はみずらに歌いて 
天たかく舞わんとす 
その声 人に似て耳に懐かし 
温もりもまた 人に似る 
鳥 消ゆ 
再び会う日の来ぬを われは知る 

 詩が描くのは鳥である。鳥となって飛び立つ人の魂である。しかし『ムーヴメント』を生んだ詩『亂譜』は、さらに長い。23行ある。一番というべき、二台ピアノ版の初演にあたり、田中はこんな言葉を寄せている。
「7拍子を核とした律動により、詩の趣意を表現したいと考えました」
 詩の趣意とは何か? 今にして思えば、よくこんな詩を書いて田中修一に渡したものだ、描いたのは崩壊して瓦礫となった都市、具体的にいえば私に近い、崩壊した新宿。なぜ壊したか。大震災の記憶が新しいので書くことを躊躇するが、造っては壊し、造っては壊しするような軽薄な、便利さや快適さを追い求めるような都会に、力はないと思いたかったのである。動く歩道(地震以来、停まっている)のような愚劣な施設は必要ない。長く続くコンクリートで固めた通路は速く移動したいだろうというので作ったのかもしれないが、そもそも、そのような非人間的な通路を作らなければいい。本末が転倒しているのである。私が初めて動く通路を知ったのは1970年の大阪万博だが、あの催しは、何だったのか? 多くの芸術家が参加したのだが。それこそ、会期が終われば壊されて、瓦礫になった。高度経済成長の象徴ともいわれたが、その背後では公害問題がいわれ、自然破壊もあった。所詮、高度経済成長などというものは、何かの多大な犠牲の上に成り立っていたので、その化けの皮がはがれたのが、かつては公害問題、そして今回の原発事故だろう。原発がなければ成り立たない仕組みを作ったから大騒ぎしているので、それがなくてもいい仕組みになれば、当然だが原発はいらない。大事なのは原発ではなくて人の生活。動く歩道と同じで本末が転倒している。そうしたことへの憤りが、詩『亂譜』にはある。つまり根源的な、人の生命感を求めるということだ。意味はない。エネルギーを求めた。瓦礫の山から生まれる、生命の力を描きたかったのである。
『ムーヴメント』一番の映像には、ソプラノの赤羽佐東子、打楽器の星華子、ピアノの森川あづさ、電子オルガンの大谷歩が見える。女性たちが力を合わせて、このエネルギーに満ちた音楽を演奏している。意味を超えた強さを感じる。そこには美しさもある。意味は、いってみれば、手段に過ぎない。その先にあるものこそほしい。意味のために意味を求める(手段のために手段を求める。原発のために原発を求める)など、愚かなことだ。生きるための手段として、意味はある。どうやらこのあたりに、それこそプリミティブな時代から、人が音楽を求めてきた理由がありそうだ。

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