2011年5月10日火曜日

トロッタ13通信(25/5月10日分)

(其の四十一)
■ ファブリツィーオ・フェスタ
『神羽(かんばね)殺人事件』という曲があった。第七回で初演された。私の詩による曲で、作曲者は、イタリアのファブリツィーオ・フェスタである。フェスタは、酒井健吉が2 agosto 国際作曲コンクールで第二位に入賞した際の芸術監督であったという。酒井の紹介で、第五回の『いのち』、第六回の『NEBBIE』、そして第七回の『神羽殺人事件』と出品が続いた。『いのち』は私の日本語詩による、ソプラノ、ヴァイオリン、ピアノの曲。『NEBBIE』は“霧”という意味だが、レオナルド・ダ・ヴィンチの詩を、フェスタの友人、カルロ・ヴィターリが生かした、ソプラノとピアノのための曲。そして『神羽殺人事件』は、私の日本語詩による、ソプラノ、詩唱、フルート、弦楽四重奏、そしてピアノという編成の曲だった。
『神羽殺人事件』には、明確な物語がある。神羽山の頂で、真裸になった男性の遺体が見つかった。男の首筋には刺し傷があった。誰がなぜ殺し、神羽山の頂に置いたのか。物語は、男の死を追う、女性刑事の視点で語られる。殺された男は、実は刑事の、他人に明かせぬ恋人だったのだ。



神の羽と書いて神羽(かんばね)と読む 
北に向かって二時間 
自動車(くるま)を走らせると見えてくる 
荒々しく削ぎ落とされた三角の岩山 
神羽山(かんばねさん)
麓には現代(いま)も 
神々の遊び場という 
手つかずの森が広がっている 
人などまだいない時代(ころ)
神は神羽山の頂で白く大きな羽を休めた 

三週間が経つ 
男の死体が発見されたのは 
神聖なその場所だった 
立ち入りを禁じられた神羽山だが 
航空写真を撮影するヘリコプターには何もかもが見渡せる 
男は平たい石に横たえられ 
真裸にされていた 
首筋には深い刃物傷 
ただし血は流れていない 
誰が 
どこで 
なぜ殺した?
さらしものにした理由(わけ)は?

私は事件を追っている 
ひとりの刑事として 
頂に立って山を見下ろし 
森を眺め 
その向こうに続く町を見るたび 
裸の感触をよみがえらせた 
誰も知らない 
男が私の恋人だった事実を 
誰も知らない 
私のからだに 
男の生命(いのち)が宿されている事実を 
ひとりの刑事として 
私は恋人が殺された理由を探している 

(其の四十二)
 私が詠んだが、本来は女声のための曲であろう。この、小説にするのが当然という物語を、私は詩として書いた。小説としては短いが、詩としては長い。フェスタは、日本語をそのまま使って楽曲化した。フェスタには、物語を英語に翻訳して送り、内容を理解してもらった。私の語りも、録音して送った。曲に付される詩は、日本語である。私の詩唱パートだけでなく、赤羽佐東子によるソプラノのパートも、日本語である。日本人もオペラのアリアをイタリア語で歌うから、こうしたこと自体はおかしくない。オペラにはイタリア語の音が生かされているから、翻訳して日本語で歌わない方がいいだろう。歌曲も同じだ。意味よりも音を、重視したい。だから、フェスタも日本語の音を生かす曲を創ろうとしたのだと、私は思っている。ただ、歌はともかく、日本語による詩唱にイタリア人が曲をつける例はないと思われるが。歌も、おそらくはないだろう。
 五つの連に分かれた詩が、順次、楽曲化されて電子メールで届く。詩と音楽が、関連しあっているだろうかと思ったが、その心配は杞憂だったと思う。なぜ、そのようなことができたのかわからないが、フェスタの曲は、詩の内容と融け合っていた。悲劇的な場面に悲劇的な音楽をと、完全に密着しているといけないので、聴く側の想像力をうながす適度な距離が必要となる。それをフェスタは作った。フェスタと日本語の関連というと、酒井健吉との交流しか思い浮かばないが、最終的には音楽家の直感が、それを可能にしたに違いあるまい。いろいろな点で希有なこの曲を、私は大切にしなければならないと思う。厳密にいえば、この曲が生まれたという事実について、考え続けたいということだ。



 第十三回で演奏される、今井重幸の『叙事詩断章・草迷宮』が進行している。泉鏡花の小説から今井本人が自由な詩を書き、それをもとにカンタータを書いた。バリトンの根岸一郎は、語り、歌う。赤羽佐東子、大久保雅代、柳珠里、青木希衣子による女声合唱もある。金管楽器はないが、フルート、オーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、打楽器、ピアノによる演奏がある。
 さらに、田中修一の『MOVEMENT an extra』も進行している。赤羽佐東子のソプラノ、私の詩唱、平昌子のファゴット、大場章裕の打楽器、森川あづさのピアノで演奏される。歌と語りと楽器演奏。田中は私に詩を求め、そこから生まれる自身の音楽的感興に期待し、一曲にまとめあげた。
 これらの曲には、共通項があるだろう。詩から生まれた音楽として。約束事はなかったのに、音楽の様式として、共通するものがある。その様式が感じさせるものは何か? 考えることが多い。まだ考えなければならない。

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