2011年5月1日日曜日

トロッタ13通信(16/5月1日分)

(其の二十一)
 堀井友徳との共同作業も二度目となった。『北方譚詩』と題して、北の国を音楽で表現する。前回の『北都七星』『凍歌』に続いて、『運河の町』『森と海への頌歌』を書き下ろした。仮にこの先も続くとしたら、堀井にとっても私にとっても、たいへんに大きな世界が作れると思う。数だけでいえば(比べてどうこうしようというのではない)、伊福部昭が更科源蔵の詩で作曲した歌の数と同じになった。もっとも、更科には『凍原の歌』としてまとまった詩集があるが、私の“凍原の歌”は、まだ数が足りない。できれば北海道に行き、気持ちを新たにして詩が書ければいい。
『運河の町』は、題名から想像できると思うが、小樽を描いた。たまたま知り合いになった油絵画家、佐藤善勇が、運河がまだあったころの小樽の風景を描いている。佐藤が小樽に寄せる愛着は、何度も話に聞いた。佐藤は、姓も同じ彫刻家の佐藤忠良にデッサンを習った。佐藤忠良は、伊福部昭の友人である。同じ旧制札幌二中出身で、伊福部の兄、勳、友人の三浦淳史とともに、絵画サークルを結成していた。私は縁を感じ、『音楽家の誕生』『タプカーラの彼方へ』『時代を超えた音楽』をオンデマンド本として刊行する際、佐藤善勇の絵とデッサンを、表紙画に使わせてもらった。また、最近はまったく行っていないが、伊福部昭に関する原稿を執筆中はもちろん、かつてはしばしばあった北海道の取材旅行では、時間を作って、伊福部にゆかりの土地を巡っていた。もちろん、“運河の町”にも足を運んでいる。小林多喜二、伊藤整らもこの町で、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に学んだかと思い、非常に感慨深かった。
 詩に描いたのは、そうした私の実体験もあるが、主に、佐藤善勇と交流する中で育った、心の風景である。

『運河の町』

消えてしまった運河に
冷たい時間が眠っている
覚えていてほしい
降る雪に凍え
かじかむ手を暖めながら
あなたと私が
立っていた
白い町
白い光景

行くあてもないまま
運河を見たくて
その日しか逢えなかったから
私たちは約束した
消えてゆく運河を見ようと
朽ちかけた船が
傾いている
容赦のない姿に
あなたも私も声をなくした

月が運河に落ちている
覚えているよ
あなたの
小さな声を
滑りながら駈けてゆく
黒い影になり
運河にかかる橋へ
思い出
何もかも
運河の町に置いてきた
私たちの思い出

(其の二十二)
『森と海への頌歌』は、もともとの詩は、『森と海のある土地』という題名であった。こちらは厚岸の風景を詠んだ。厚岸は、伊福部昭に縁の深い土地である。北海道帝国大学林学実科を卒業した伊福部は、森林官となって厚岸に赴任する。『日本狂詩曲』チェレプニン賞受賞の知らせは、その厚岸に届いた。チェレプニンに横浜で作曲のレッスンを受け、その返礼にと思い立った『土俗的三連画』は、厚岸の人と風土を楽曲化したものだ。厚岸の女たちに共感した「同郷の女達」、厚岸半島の絶壁の名である「ティンベ」、アイヌの古老が繰り返し歌った歌の名「パッカイ」。楽章に付された題名である。『土俗的三連画』は、厚岸に生きとし生けるものの音楽的表現である。
 どうも、文学的な方面に興味が行ってしまうのだが−−。伊福部はプルーストの『失われた時を求めて』を愛読し、そこに描かれたノルマンディの避暑地バルベックに厚岸を重ねていた。そこを最果ての土地、太古の土地をとらえ、人も動物も植物も、皆が平等に生きる世界だと、その風景を受けとめていたのである。厚岸に足を運ぶと、その大きさに圧倒される。足元の石ころや植物など、小さなものまで大きく感じる。詩に登場する鹿には、実際に対面した。海豹には会わなかったが、海に浮かぶ島を、あそこが海豹がいると聞く場所かと眺めた。鹿、海豹を詠んだならと、最後の連では人を登場させたのである。
 前回、堀井は女声三重唱とピアノという編成を採った。今回は、混声四部とピアノである。声の魅力、歌の魅力を聴かせようとしている。

『森と海への頌歌』

濡れている鹿の目は
何を見た
太古の森を映して
漆黒に光り
ひるがえす身の行く手に
人はなし
木霊(こだま)の息が満ちている
数え切れない歳月に
生きて死ぬ
獣たちよ永遠(とわ)に

濡れている海豹(あざらし)の目は
人を見た
海と陸(おか)に別れて暮らす
はらからよ
言葉がもしも通うなら
見たもの
聞いたものを語らおう
蒼(あお)果てしない海底(うなぞこ)で
われは待つ
踊りながら揺れて

濡れている人の目は
風を見た
そびえる崖に立ちながら
時間(とき)の流れに思いを馳せて
いにしえは今
今もいにしえ
生命(いのち)は絶えることなしに
はるかな空へ続いてゆく
響けよ歌
名も知らぬこの土地で
生まれ変わるものたちのため

0 件のコメント:

コメントを投稿