2010年10月12日火曜日

「トロッタ12通信」.6(*10.11分)

 衝突するといえば、これから先は、主人公が、自分自身に衝突している。言葉が錯綜する。意識が錯綜する。私の詩と清道氏の詩が混淆するのだ。次のように。

(木部)超特急はどこに向かって疾走する
(清道)幻想第四次を走るあの列車は
(木部)空気を切り裂いて
(清道)彼女を乗せて
(以下、木部)戦争は
もうずっと前に終わったから
いつかまた始まる
今度起きたら何もかもオシマイ
誰かがどこかで
最後のスイッチを押そうとしている(註;この一行を演奏者も詩唱する)

 演奏は、Andante lamentoso(♩=72)で、ゆっくり、哀しげになる。これを16小節聴かせた後で、詩唱。

背中合わせの恐怖
ニヒルになりたくてもなれない私なのだ
この夜空が
もう一度
真っ赤に染まる夜
私はどこにいるのか
女の背中の何という遠さ
伸ばした手を
そのままにする
(繰り返し;この夜空がもう一度真っ赤に染まる時 私はどこにいるのか)
 描いている状況は、1960年代なら誰もが置かれていたものだ。戦争が起れば、いつ死ぬかわからない時代であり、その恐怖から目をそむけ、生活でも何でもいい、目の前のものごとに、刹那的にでものめりこむしかなかった。想像力があれば、気が違っていてもおかしくなかった。今が安全かというとそんなことはないし、核戦争とは別のさまざまな恐怖があるのだが、いずれにせよ生と死は隣り合わせ、背中合わせの関係にある。人は、そんな、綱渡りの時間を過ごしている。1960年代がイリュージョンなら、現代も同じだ。

 楽譜に、こんな、清道氏の言葉が添えられていた。
「詩唱は、従来の詩唱と異なり、俳優としての機能が要求されます。/これは『トロッタ自体が常に進化し続ける必要があるのではないか』という僕自身の会に対する考え方によるものですが、勿論、進化の最終形が『演劇』であろうはずがなく、未だだれも到達していないであろう新しい表現へむけての発展途上のものとお考えいただきたいと思います」
 気にせざるを得ない発言である。
 トロッタが進化し続ける途上で、詩唱者に俳優の力を求める、ということ。しかし、演劇の次元ではない。そして清道氏は、音楽と、断言してはいない。「未だだれも到達していないであろう新しい表現」という。それはどういうものか? わかるはずがない。新しい表現なのだから。詩と音楽と演劇を包含した表現といえるかもしれないし、もっと別のものかもしれない。オペラと、簡単にはいいきれない。彼の作品には、『アルメイダ』や『ナホトカ音楽院』など、オペラ的なものはあったが、それらも途上と位置づけられるのであろう。では今回の『イリュージョン illusion』は?

 Piu mosso(♩=76)で、演奏が速くなると、最後の詩である。

遠く長く
哀しいサイレンが
むせび泣きのように聞こえてきた
溶け始めている
毒々しくも美しい
無人の街が

 再び、清道氏の台詞が続く。

私は追いかける
幻想第四次を走る列車を探して
エルドラドはどこへ行った。
チチカカを渡ったあの時の風は!
(以下、略)

 省略したのは、解説して事足りるはずがないからで、初演の舞台を、ぜひお聴きいただきたいと思うからである。
 作家が、自分を小出しにせず、一曲に人生のすべてをこめることを想像すれば、『イリュージョン illusion』は、清道洋一氏の自画像である。自分とは関係なく、作り事の肖像を描く人もいるだろうが、技術としてはあり得ても、私はそのようなものには興味がない。清道氏は、私の詩を用い、さらに詩唱者として働かせようとしている。客席には、私の姿だと映るだろうが-自作自演と映るかもしれない-、私はそんなものを披露したいとは思わない。自作自演というなら、清道氏の、である。詩唱者は、結果として、彼の表現になればよい。
「エルドラドはどこへ行った。チチカカを渡ったあの時の風は!」
 さらに−−。
「実効的な愛は、空想の愛と比べてはるかに峻烈だ!」
 日常、彼の心を、このような言葉が渦巻いていることを想像し、彼が求めていることに、思いを馳せている。

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