2010年10月11日月曜日

「トロッタ12通信」.5 (*10.10分)

 前回あげた、「実効的な愛は、空想の愛と比べてはるかに峻烈だ!」という言葉。清道洋一氏によると、これはドストエフスキー作『カラマゾフの兄弟』からの引用である。私は学生時代に読んで以来、再読しておらず、当該箇所を覚えてもいない。持ってもいない。私にとって、ドストエフスキーは遠い存在だ。
 清道氏の教示により、その言葉がある第一部・第二編「場違いな会合」のうち、「四 信仰のうすい貴婦人」を読んでみた。しかし、前後を読み込んでいないので、適格な説明ができない。ただ、その台詞は、ロシア正教のゾシマ長老のものだといっておこう。地主の未亡人である、ホフラコワ未亡人に向けて使われた言葉だともいっておこう。
 新潮文庫に収められた、原卓也訳の文章を、いくつか、引いておく。
「(註;信仰心を取り戻したい、来世があることを信じたいと思っている未亡人に対して、証明はできなくても確信はできるという。その方法は−−)実行的な愛をつむことによってです。自分の身近な人たちを、あくことなく、行動によって愛するよう努めてごらんなさい。愛をかちうるにつれて、神の存在にも、霊魂の不滅にも確信がもてるようになることでしょう。やがて隣人愛における完全な自己犠牲の境地にまで到達されたら、そのときこそ疑う余地なく信ずるようになり、もはやいかなる懐疑もあなたの心に忍び入ることができなくなるのです」
 長老と未亡人の会話は続く。清道氏が引用したのは、次の箇所だ。(便宜上、【 】でくくった)
「何一つあなたを喜ばせるようなことを言えなくて残念ですが、それというのも、【実行的な愛は空想の愛にくらべて、こわくなるほど峻烈なものだからですよ】。空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命をさえ捧げるという境地にすら達することもあります、ただ、あまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、賞めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。ところが、実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです」
 原卓也による翻訳は、「実行的」といい、清道氏はそれを「実効的」という言葉に変えている。ニュアンスが異なる。
 清道洋一氏は、前後のストーリーに関係なく、言葉だけを抜き出したのだと判断してよいだろうか。あえて『カラマゾフの兄弟』に触れなくてもいいかもしれない。しかし、彼がこの言葉を使った以上、言葉に原典がある以上、気にせずにはいられない。私の詩の中に、ドストエフスキーの言葉が挿入されているのだから。いや、私の詩と、ドストエフスキーの言葉が衝突させられているのだから。これもまた、作曲者の、詩人に対する意思表示か。
 ただ、清道氏が、無人の高速道路を音もたてず、裸足で歩く黒髪の女への刹那の愛を詠う場面に、「実効的な愛」という言葉を挿入した点に、清道氏の意図を感じる。超特急や戦争をいう場面には、挿入していない。一曲の鍵になるだろうか。
 この、ドストエフスキーの言葉は、「天の声」として、もうひとりの詩唱者、中川博正氏によって発せられる。

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