2010年10月31日日曜日

「トロッタ12通信」.23 (*10.28分)

 寒い日でした。しかし、そんなことはいっていられません。寒さは感じません(からだには無理が来ていると思います)。一日、仕事に追われました。仕事をしないことには、トロッタのための資金を得られません。仕事の合間を縫って、皆さんに連絡を取るなどしました。



紫苑(しおん)
木部与巴仁 「詩の通信 II」第19号(2008.3.31)

絵を描いたまま
死んでいった人へ
それは紫苑の姿
花は紫
ひとつかみの茎が
命をなくして横たわる
この花こそ
遠くない日の自分かと
筆を杖として
画布に向かった

紫苑は浮かぶ
白い影に
息絶えている
描き終われば死ぬ
わかっていながら描いた
紫の命
私は紫苑

生きたいと
その人は一度も
訴えたことがなかったという



 橘川さんが、詩歌曲、あるいは詩曲に求めているものは何でしょう? 近いところでは、橘川さんの第四回個展で演奏した『夏の國』があります。非常にドラマチックで、しかも音楽的に完成された曲でした。橘川さんは毎回、詩唱を編成に組み込んだ曲を書いてくださいます。
 橘川さんと初めてふたりで会い、酒井健吉さんの曲の演奏風景をビデオでお見せした時、こういうことがしたかったのですと、彼はいいました。音楽の流れにおいて、朗読は、邪魔と受け取られる場合が多いと思います。朗読のための曲が少ないことで、それは立証されるでしょう。歌であれば、流れを阻害しません。つまり、メロディやリズムがあって、流れに乗っているから。朗読はメロディやリズムがなく、流れに乗っていません。しかし、私が橘川さんにお見せしたのは、演劇的と見え、つまり音楽的ではなく聴こえ、語りと見え、つまり歌には聴こえない、それでいて音楽作品として書かれ、BGMなどではなく音楽の進行と関わることを計算された作品だったのです。
 一般の作曲家が感じる違和感を、彼は感じないということでしょうか。
 それだけ彼は、一般の音楽観にとらわれていないということでしょうか。
 語り、朗読、詩唱に、彼は音楽を感じるということでしょうか。
 書いておきますと、私は、音楽の流れに乗る詩唱をするべく、心がけています。音楽を阻害したくありません。私の詩唱が、楽器の演奏から、何がしかの音楽性を引き出せればいいとさえ思います。つまり、他の方とかかわりあって音楽を創りたいということ。いうまでもない、当り前の話です。
 映画やテレビの音楽を、観ながら聴いていますと、さほど厳密な計算はされていないことがわかります。むしろ、厳密な計算は邪魔でしょう。出演者が驚いたり、観客を驚かせたい場面で大きな音を出す。哀しい場面で抒情的な旋律を演奏する。こんな方法は愚の骨頂です。ただの伴奏音楽です。これは困難だということを承知で書きますが、役者の演技で、観客に驚きや哀しみを伝えなければなりません。音楽の助けはいりません。私の詩唱は、いえトロッタの詩唱は、音楽を伴奏とするものであってはなりません。一緒に進行するというだけです。私には、音楽の伴奏を、詩唱がするくらいの気持ちがありますが、これは言い方であって、どちらがどちらの伴奏などでは決してないのです。(かといって、伴奏をおとしめているのではありません。あまりにも、音楽をBGMとして扱う朗読が多く、音楽に雰囲気作りを助けてもらおうとする、依頼心があからさまな朗読が多いので、注意をしたいのです。歌曲における、伴奏者と呼ばれる方々の努力を無視したくありません)
 今回の『黄金の花降る』で目立つのは、繰り返しです。
 詩唱者はふたり。私と中川博正さんです。中川さんが詠んだ直後、私が同じ言葉を繰り返す。このパターンが非常に多くあります。
中川「それは 紫苑の姿」 木部「紫苑の姿」
中川「それは 紫苑の姿 花は紫」 木部「花は紫」
中川「紫苑は浮かぶ 白い影に」 木部「白い影に! 息絶えている」 中川「息絶えている」 木部「描き終えれば 死ぬ」 中川「死ぬ」 木部「死ぬ」 中川「描き終えれば 死ぬ」 木部「描き終えれば」
 これは何でしょう。エコー? こだまでしょうか? 

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