2010年1月26日火曜日

「トロッタ通信 11-14」

*以下の文章は、1月24日分を、1月25日にアップしたものです。


ひとつ、私の詩は、発声するところから始めたいと思っています。この時点では、朗読も詩唱も同じです。少なくとも詩は、声に出して詠みたい。なぜかといえば、声に出すことは人にとって、文字を読む、文字を書くより先にあった行為だから。文字がなくても、声は出せます。書き留められていない物語も、声に出して聴かせる、表現することができます。物語を共有できます。場も共有できます。文字を読むとは、個人の営みにとどまります。大ベストセラーで、大部数が出たとしても、個人の営みが別々の場所で行われたに過ぎないと、私は感じます。声が出れば、それは肉体表現として音楽に大きく近づくと、私は思います。

何度も書きましたが、大晦日のニューヨークで、朗読会に参加しました。私は読まず、聴いていただけです。今は出版されていない長編小説を、声に出して回し読むことで、体験しようという催しでした。これにひかれました。私にとって、詠むことの原点です。ただ、音楽性は皆無でした。皆さん、座って、文字に目を落としながら詠んでいます。抑揚とかリズムとか、最低限のものはありますが、特に意識されてはいません。音楽性ではなく、声に出している点に、私はひかれたのです。

それでは、小学校の朗読と変わらないではないか。そう、変わりません。学校では、どのように意味付けているのでしょう。授業中の朗読を。見当がつきません。ただ読むだけでは、深く理解することにならないと思います。読む本人は、読むことだけに気をとられてしまいますので。意味をとらえることができないのではないでしょうか。−−これに似た点を、理由は違うと思いますが、私は重視したいのでしょうか? 朗読は、意味をとらえられない。意味ではなく、声による音を、重視するということ。

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