2009年11月17日火曜日

「トロッタ通信 10-9」

(黒衣の女)

約束!

約束!

約束!


一九九七年 ために


  *


黒衣の女が繰り返して叫ぶ「約束」とは、何でしょうか?

これは原詩にありません。田中さんの「約束」です。

しかし、詩の題を『約束』としたのは私です。その限りにおいて、言葉の意味を考えることはできます。すでに引用した箇所があります。

「あなたが流した/血と涙を/私はきっと忘れない」

これが約束です。

ただ、『時速0km下の世界』と『万華鏡』をも、田中さんは解体して再構成している以上、田中さんが解釈する「約束」があるはずです。

それは、原詩ではなく、再構成された詩と音楽からしか、判断できません。

詩は、言葉のみで解釈できますが、音楽は、音もまた解釈の材料にしなければいけないのです。フルートと、オーボエと、ヴァイオリンと、ピアノによって演奏される、音楽があります。


  *


(きみ 娘)

ああ


(黒衣の女)

作ってあげましょう

あなたのために

人形を


(きみ 娘)

ああ


(男)

あれは


(きみ 娘)

ああ


(黒衣の女)

作ってあげましょう

あなたのために

人形を


(男)

あれは


(きみ 娘)

ああ


(駅員)

ホームの端を歩かないで下さい


(黒衣の女)

歌ってあげましょう

あなたのために

もう一度

もう一度 もう一度


(男)

あれは捨てたうただ

捨てた時間

捨てた記憶


  *


題名の『捨てたうた』という言葉が、私ではなく、田中さんのものであるという事実。

後半になって、男は「捨てたうた」と口ばしります。「捨てた時間」「捨てた記憶」という言葉とともに。

そんな男を、必死に止める、現実を生きている人間、駅員。


  *


(黒衣の女)

歌ってあげましょう

あなたのために

もう一度


(きみ 娘)

ああ


ああ

稲妻が

あ あー

終わってしまう

わたしたちの世界が


(黒衣の女)

ウウ ウウ

ふう

ふー うー


(男)

ああ

黒い影が

宙に舞った

黄色い線を超えた時

小さな風が起きたという

止まった時間と

消えてしまった速さ

車輪とレールの間に

世界が


(駅員)

黄色い線の内側まで

下がって


(きみ)

裸の背中に流れる

わたしの髪が好きだって

わたしの髪

長い髪


(黒衣の女)

作ってあげる

あなたに似せた

やせっぽちの

人形 人形


(男)

松の葉さえ

金色に光っている

楓は黄色く紅く

何もかもくっきりと

ああ

捨てた記憶

捨てた時間

捨てたうた!


ああ


(駅員)

ホームとレールの間が

広く開いて


下がって下さい


下がって下さい

下がって!


(駅員)

発車進行


(男)

時を

時の記憶を


今夜も

魚は泳いでいた

月を見た

満開の花を見ていた


  *


男は、死んだのでしょうか。黄色い線を飛び越えて、時速0km下の世界に行ったのでしょうか。わからないままです。駅員が何事もなく「発車進行」といっているのです。駅員は、彼岸に行きたい者を阻止する役目を果たしたと見ることができ、男はやはり、生と死の境をさまよい続けているとするのがよいと、私は思います。行ってしまったら、このような物語は成立しませんから。

しかし、それは私の解釈であり、田中さんは、死者に、詩にある彼岸の光景を語らせているのかもしれません。例えば、このような。

「松の葉さえ/金色に光っている/楓は黄色く紅く/何もかもくっきりと」

「今夜も/魚は泳いでいた/月を見た/満開の花を見ていた」


ご批判のメールにありました。お客様に先入観を与えてはいけない。詩と音楽の融合を、その場で楽しめるようにした方がいいのでは。

ただ、私がここまで書いたことは、誰でも考えられることだと思います。開演前、すでに詩を配っているのですから、時間さえあれば、不可能ではありません。原詩と、構成後の詩を比較することも容易です。

詩を離れ、音楽として演奏するのですから、先入観の持ち様はないのではないか。劇作家で演出家、響リュウジとして活躍する田中隆司さんの演劇性についても触れようと思いながら、それはしませんでした。原稿を書いていて、そこに行く余裕はなく、音楽性をこそ考えなければならないことに行き着いたからです。


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