2009年11月29日日曜日

「トロッタ通信 10-20」

今井先生の回顧展コンサートは、私も拝聴させていただきました。そのライヴ録音を聴きますと、バリトンの宮本益光氏が、歌い、語っています。トロッタ10の『時は静かに過ぎる』は、バリトンの根岸一郎氏が歌い、私が語ります。なるほど、今井先生は、語りを伴う音楽に、もともと縁があったのだと、今さらながら実感しました。


歌手が歌い、語る。それができれば、役者は必要ないといえます。役者といわなくても、語り手は必要ありません。音楽に必要なのは歌手であって、歌手が語るなら、歌えない役者は必要ない。音楽の舞台では、役者は部外者です。しかし、今井先生の曲には、歌手ではなく、語り手が登場する作品があります。それが『奇妙-ふしぎ-な消失』であり、回顧展コンサートでも、舞踊のための音楽『グラナダの妖女サロメ』に、ヘロデスという人物が登場し、これには役者の有本欽隆氏が扮しました。


本音をいえば、詩と音楽をテーマにした「トロッタの会」を続けていますが、まったく疑問を抱かず、信念だけを持って舞台に立っているかというと、そうではありません。居心地の悪い思いをしています。音楽と融合した語り、詩唱を心がけながら、本当に融合できているのか、音程のない発声が、周囲から浮いていないか、常に考えます。

私の詩唱を聴いて、あるいは観て、芝居のようだという声は、しばしば聴きます。私は、芝居をしていました。しかし、今はしていません。それが答え、ひとつの態度で、芝居には違和感を持っています。芝居を、私はやめたのです。役者になりきれなかったのです。続けられなかったのですから、落伍者です。かといって、歌手であるかというと、そうではありません。歌は習っていますが、そんな人は世の中にいくらでもいます。歌えばすなわち歌手かというと、そうではありません。

私の詩唱を芝居だという声には、芝居をしていたから、その名残が感じられるのだろうと思います。音楽の新しい表現だと思っていただけないことに、無念さを感じます。『奇妙-ふしぎ-な消失』や『グラナダの妖女サロメ』に出演した役者の方々は、どんなことを感じて舞台に立ったのでしょうか。バリトン歌手・宮本益光氏は、何を思いながら、語ったのでしょう。語りに違和感を持たなかったのか。

トロッタ10では、田中修一氏の『雨の午後/蜚(ごきぶり)』で、短いながら、私は歌います。これは間違いなく、詩唱ではなく、下手であっても歌です。芝居のようだと思う人はいないでしょう。実に明確な違いがあります。語りは永久に語りであって、歌にはならないのか。私の詩唱とは、何なのか。


今井先生は、回顧展コンサートのプログラムで、こんな発言もしておられます。

「私の作品は、どうしても器楽の曲に偏ってしまっていて、そういう系統だけではなく声楽を前面に出した作品も書いてみたいとの欲求を長く持っていました。声はやはり根源的なものですから、人間の根源というか原初というか、そんな領域に興味を持つ作曲家としては、その声をきちんと扱いたいとは思い続けてはいたのです」

声は根源的なものであり、原初の領域でもある。

何となく、答えに至る手がかりが、ここにあるのではないかと思いました。

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