2009年9月11日金曜日

再び、数日のことなど b)

8日(火)の深夜、日付も変わった午前1時。作曲家の橘川琢さんが阿佐ケ谷駅にやって来ました。楽譜を届けてくれたのです。3時ごろまで、駅前のマクドナルドにて、コピーした楽譜を整理しました。そこで今後のトロッタについてなど、話し合いました。問題はいろいろとありますが、とにかく前向きに、詩を書き、作曲をし、トロッタを開き続けていくということです。彼はインターネットカフェに行って、夜が明けるまで過ごしたようです。

先日書きました、詩を変えるということについて、いろいろ考えました。態度は変りません。作曲家は、私の詩を変えてくださってけっこうです。ただ、変えるとはどういうことだろうと思いました。詩文がメロディに乗らない。リズムが違う。私の詩より、もっと作曲家自身の音楽世界に近づけたい。いろいろ理由があるでしょう。答えは出ていません。これからも、変えてくださいというでしょうが、作曲家の考えについては、想像をやめないだろうと思います。そしてトロッタなどで、音楽として発表する限り、それは最終的に、作曲家の作品だと、私は思っています。

その基本にある考え。モーツァルトでも誰でもいいのですが、ある著名作曲家A氏の作品が演奏される時。人は、モーツァルトの名前で聴くか、A氏の名前で聴くでしょうか? どちらで聴いてもいいわけですが、モーツァルトの方が多いのではないでしょうか。しかし、聴いているのはA氏の演奏なのです。B氏の演奏とは、決定的に違っているでしょうし、また違っていてほしいと思います。この場合、B氏とくらべてA氏が優れているとか劣っているとか、あまり思いません。A氏のよさを聴きたいと、ずっと思ってきました。

このたとえでいうと、詩は、演奏のはるか後方にあります。演奏者の演奏を聴いて、作曲家の感性を聴き取って、できれば詩を聴いていただきたいと思います。しかし改変されている場合、私の詩は、さらにずっと後方にあることになります。もうひとついいますと、私自身、自分の詩を詠んだとしても、それは作曲家が譜面に書いた詩を詠んでいるつもりです。楽器の方と一緒なので、自分のメロディやリズムで詠めません。従って、自分の詩を、他人の詩として詠もうとしています。その方がおもしろいと思っています。

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